2018年3月31日土曜日

ESCAPE MINI 3 にフロントキャリアを付けた!

愛車のエスケープミニにキャリアを取り付けてみた。ルイガノMV用のフロントキャリアなのだが、ボルトの位置がエスケープミニと同じなので簡単に取り付けることができる。

取り付けの際の注意点としては、ボルトが付属しないので、自分で調達しなくてはならない点。DIYショップで適当なボルトを数種類買って試したところM6×10mmの規格が使えることがわかった。
ただし、キャリアの金具が厚いので10mmだとワッシャーを咬ませるには長さが足りない。ワッシャーがなくても固定はできるのだが、直系12mm以上のボルトにワッシャーを咬ませて固定するのがベストだろう。

※ステンレス製のボルトで固定すると、電位差で自転車側のフレームが腐食するという情報をSNSからいただいた。M6×15mmのボルト(六角 鉄 生地)+ワッシャーの組み合わせにしたらバッチリだった。Oさんありがとう!

このキャリア、ルイガノ取り扱いのヨドバシカメラ新宿店で取り寄せしてもらったのだが、純正品ではないので取り付けは自分で行う必要がある。親切な店員さんのおかげで、税込2,052円以外に送料がかかるところをヨドバシ通販への加入特典で無料配送にしてもらうことができた。

ただし、店舗での注文と現金払いが必要なので、自転車で行ける人か定期券で新宿へ行ける人にしかおすすめできない。ちなみにアマゾンだと送料込みで2,554円也。
キャリアの取り付けがうまくいったので、今度はカゴを取り付けてみるつもりだ。

2018年3月30日金曜日

A-2フライトジャケットにAAFデカールを貼ってみた

桜の季節になると毎年、フライトジャケットを着たくなる。冬にお世話になったダウンジャケットから、フライトジャケットに衣替えするのにちょうど良いのが、桜の季節なのである。

フライトジャケットのなかでも、春秋にちょうど良いのがA-2。着込まれて味の出ているA-2はないかと、オークションを見ているとブランド不明のA-2が目に止まった。さっそく即決価格の税込4,957円で落札。

通常のA-2との違いは、シープスキンである点。A-2は本来ホースハイドなのだが、馬革は硬くて体に馴染むまでに時間がかかるのが難点。実は以前、旧リアルマッコイズのA-2 The Great Escapeモデルを所有しており、着心地の悪さはよく知っている。今回のA-2は、シープスキンなのでやわらかく、その心配はない。
私がA-2と出会ったのは、小学校4年のときにはじめて『大脱走』がゴールデン洋画劇場でテレビ放送されたときのこと。前編、後編と2回に分けて放送された『大脱走』の衝撃は凄まじいもので、スティーブ・マックィーン演じるヒルツ大尉が着ていたA-2は、強烈な印象として脳裏に焼き付いた。

その後、A-2が市場に出まわるのは、1987年にリアルマッコイズの創業者である岡本博氏が雑誌『ポパイ』の特集で300着限定で世に出したのが最初で、それまでは『トップガン』でトム・クルーズが着たG-1がフライトジャケットの定番だった。A-2はながらく幻のフライトジャケットだったのである。
さて、落札したA-2が届いたので細部を見てみると、タグにはたしかにTYPE A-2と縫われているものの、ディテールのいくつかはG-1仕様となっている。ざっと見たところ、以下の点がA-2と異なる部分である。

1)両袖にリブがない
2)ジッパーがプレートではなくワイヤー式
3)左側ポケットにG-1と同じペン用のポケットが内蔵されている
4)両方のフロントポケットにサイドポケットが付いている
6)左右のライナーに胸ポケットがある
一見すると普通のA-2だが、着やすさと実用性を重視してつくられているのがわかる。適度なヤレ具合に長年着込んだ味がでており、ほぼイメージ通りのA-2だったので良しとしよう。実際に着てみると、若干ダボッとした感はあるが、体に密着しすぎないので着心地はいい。

A-2特有のタイトなシルエットがないのが惜しいところ。そこで、少しでもA-2らしくするために、腕章のAAFデカールを貼ってみることにした。使用したのは、大阪のミリタリー専門店『MASH』が発売している、AAF Decal 革用 “熱&水”転写 Full Color というデカールで、送料込みで2,700円のもの。
ホームページに詳しく取り付けマニュアルが載っているので、それを見ながら慎重に作業をしたところ、なんとかうまく貼り付けることができた。ホームページにも載っているが、アイロンとドライヤーは必須である。

写真は、アイロンによる熱転写後、デカールの台紙に水を筆で塗り拡げ、1分ほど放置してから台紙をデカールから取り除いている状態。この後、ティッシュで水分を吸い込ませてからドライヤーでデカール表面を乾かし、そのまま動かさずに2時間ほど放置すれば作業は完了だ。

2時間ほど、そのまま放置すると、デカールはうまく革に定着してくれた。AAF(ARMY AIR FORCE)のデカールが肩に入るだけで、グッとA-2らしい雰囲気になった気がする。

これを着て桜が満開の地元を歩いてみたのだが、3月末とは思えない23℃の陽気だったので、TシャツにこのA-2を着ているだけでもうっすらと額に汗がにじむほどだった。
このデカールによる効果はテキメンで、付ける前と後ではあきらかに周囲の反応が変わった気がするのは自意識過剰すぎだろうか(笑)。旧リアルマッコイズのA-2のときは、革が硬い上に見た目も真新しくてちょっと気恥ずかしさを感じたものだが、このA-2にかぎっては適度なヤレ感があるため体にすぐ馴染んだので、自然な着こなしができて心地良い。

このA-2購入をきっかけに『大脱走』をDVDで見直してみると、マックィーンのA-2は結構しなやかで、そのラフな着こなしぶりからもホースハイドではなくゴートスキン(山羊革)ではないかと思うのだが、いかがだろうか。

2018年3月23日金曜日

笹塚の古本屋で見つけた、映画DVD『ファクトリーガール』

先日、笹塚の十号通り商店街を歩いていたら、古本屋のワゴンセールで『ファクトリーガール』という中古DVDを見つけた。「アンディ・ウォーホルが愛し憧れ、“ロックの神様”ボブ・ディランが曲を捧げた一人の女性」というキャッチが気になった。さらに「60年代の文化を創りあげた二人の男に愛された一人の女性の激しく美しい人生」とある。おもしろそうだったので買って帰った。

アンディ・ウォーホルもボブ・ディランも同じ時代にニューヨークを拠点に活動していたが、この二人には接点のようなものは感じられない。ポップアートの騎手と謳われたウォーホルは1964年、ニューヨークに「ファクトリー」を構え、シックスティーズ・カルチャーの中心にいた。一方のボブ・ディランは、フォークソングで一世を風靡したあと、弾き語りからロックへと移行している時期である。

芸術にポピュラリティーを取り入れたウォーホルに対し、反体制的な歌詞をポピュラー音楽で表現したディラン。文章に書くと一見似た者同士のようにも思えるが、二人が表現していた世界観はまったく違う方向を向いていたのだ。

しかし、二人共1950年代から1960年代にかけてのビート・ジェネレーションの影響を強く受けている点は見逃せない。ウォーホルは、ウィリアムズ・S・バロウズ、ディランはジャック・ケルアックのフォロワーといっても過言ではないだろう。

この二人の一見異なる人生をシンクロさせたのが、映画の主人公、イーディ・セジウィックという女性である。元々、牧場主の名家出身という裕福な環境で育ち、アートを学ぶためにニューヨークで暮らし始めた彼女は、社交界でも注目を集めはじめ、ほどなくしてウォーホルと出会う。ウォーホルはイーディの美貌とセンスに惚れ込み、自作の映画に出演させたり、リヴィング・スカルプチュア(生きた彫刻)としていつも自分と一緒に行動させるなどして、彼女を一躍有名にする。

自由奔放に振る舞うイーディの生き方とそのファッション感覚は、ウォーホルにも創造的な刺激を与え、ゴシップを巧みに使ったパブリシティ効果もあって、時代のミューズへと祭り上げられていった。
そんなある日突然出会ったのが、もう一人のスーパースター、ボブ・ディランだった。常に若手アーティストや有名人に囲まれて毎日がパーティのような日々だったウォーホルと異なり、ディランの私生活はしごく孤独なものであり、それは二人が同時代に表現していた世界観の違いそのものだったといえるだろう。イーディは、そんなディランにも惹かれていき、交際へと発展していく。

この映画は、イーディ・セジウィックの28年という短い生涯を描いた映画だが、後半の痛々しい転落人生よりも前半から中盤にかけての生き生きと輝いている彼女が描かれたシーンに最大の見どころがある。
1960年代中頃〜後半にかけてのニューヨークのアートシーンの雰囲気が映画の美術、衣装、メイクを通じて忠実に再現されており、観ているだけでも楽しめる内容となっている。
同じ時代の映画『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』も、キャスティングを含めて舞台セットやロケ地、美術、衣装、メイクにこだわってその時代の雰囲気を追体験させてくれる秀作だったが、この映画もまるで本人によるドキュメンタリーを観ている錯覚に陥るくらいによく雰囲気が表現されている。

ウォーホルとイーディのコンビは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの関係にどこか似ており、同じニューヨークで暮らし始めるジョンとヨーコに少なからず影響を与えたに違いない。

ウォーホルなどのポップアートや1960年代ファッションに興味がある人にはおすすめの映画だ。イーディを演じるシエナ・ミラー、ウォーホルを演じるガイ・ピアースの演技も秀逸で、まったく違和感なくこの時代の空気を味わうことができるだろう。


2018年3月19日月曜日

オオトモ Raychell FB-206R シマノ6段変速をGET!

オオトモの折りたたみ自転車『Raychell FB-206R』を実家用の足としてGETしました。
クレジットカードのマイルポイントがそれなりに貯まっていたので、なにかの商品と交換しようと思って調べてみると、レイチェルの折りたたみ自転車があったので交換しようと思いたったのです。

さらに調べてみると、カード会社で直接商品に交換するよりも、インターネット通販会社のギフト券に交換してから買ったほうがお得なことが分かったので、持っているポイントを全てギフト券に換金して、ネット通販から自転車をGETすることに。

FB-206Rの色はアイボリーを選択しました。特別な思い入れがあるわけではなく、単に見た目の印象で選んだ結果です。注文から3日後に荷物は実家に届きました。組み立て用の工具も付属しており、組み立てもそれほど難しくないので問題はなかったのですが、後輪のタイヤに空気が入っておらず、隣町の自転車屋まで押していくはめに。

実家から押して歩くこと約20分。途中、空気入れを貸してくれそうな店もなく、やっとの思いで自転車屋に辿り着いたのでした。しかし・・・まさかさらなる悲劇が待っているとは (TOT)
この自転車屋の店主が超意地悪で、空気入れは貸してくれたものの、後輪のチューブが外輪からずれているにもかかわらず見て見ぬふり。あせって作業したせいか、空気がかたよって入っていたらしく、走らせると膨らんだタイヤがフレームに干渉してまったく動きません。

背に腹はかえられない・・・とはこういうことをいうのかと思いつつ、悔しさを忍んで自転車屋へ戻り作業してもらったところ、工賃として300円もとられてしまいました(怒)。
こんな苦い思い出から始まった『FB-206R』ですが、乗り心地はまずまずといったところ。普段乗っている『エスケープミニ』と比較すると、ギアチェンジのスムースさもハンドリングも今ひとつです。しかし、1時間ほど乗っていると、だんだん慣れてきたのか、乗り心地については気にならなくなりました。やはり、買い物カゴがあらかじめ付いているのは便利です。実家からよく買い物へ行くショップまで、徒歩25分はかかっていたのが自転車なら6〜7分程度に短縮でき、カゴも付いているのでとてもラクチンです。

2018年3月13日火曜日

ミュージカル『HEADS UP!』を観てきた!

2018年3月9日(金)、TBS赤坂ACTシアターで行われたミュージカル『ヘッズ・アップ!』を観てきた。このミュージカルは、芝居のバックステージをテーマにしたストーリーで、構想から10年を経た2015年に初めて上演されたもの。

今回は「都民芸術フェスティバル」現代演劇公演のなかのプログラムとして、2018年3月2日(金)~12日(月)まで上演された。「都民芸術フェスティバル」には、他にもクラシックオーケストラ、室内楽、オペラ、寄席芸能、バレエ、邦楽、日本舞踊、能楽、現代舞踊などのプログラムがあり、それぞれに抽選でチケットプレゼントという特典が付いている。

このチケットプレゼントに応募したところ、うれしいことに『ヘッズ・アップ!』の当選が決まり、夫婦で芝居を観に行くことになった。ミュージカル映画は何度も観たことがあるが、ミュージカルを生で観るのはこれが初めてのこと。どんな体験となるのかワクワクしながら赤坂へと出かけていった。


芝居は、劇場の管理人役がストーリーテラーとなって始まり、軽快なダンスと歌でテンポよく話が進んでいく。ストーリーの筋は、舞台監督の交代劇を柱とするが、舞台美術の職人3人によるユーモアが全体の流れを引っぱるかたちで話が展開する。

興味深かったのは、芝居の舞台裏には演出家、舞台監督、制作という3人のスタッフが中心にいて、それぞれが別の責任を持つ点を細かく描いているところ。出演者と同様にスポットが当たる演出家とは異なり、舞台監督や制作はあくまでも裏方であり、通常は表面に出てくることはない。しかし、このミュージカルの主役は舞台監督で、さらに裏方の色合いが濃い舞台美術を準主役に据えている。実際の舞台には、この他にも照明や音響、衣装やメイクといった裏方がいて芝居の世界は成り立っている。

私は過去にパナソニック主催による『東京パーン』という汐留にあった劇場で、海外アーティストを招聘して実験的なライブを行う『HI-REAL』というイベントに約3年にわたって携わった。オーネット・コールマン、テリー・ライリー、クリスチャン・マークレイ、サイキックTVといったアーティストのライブ・パフォーマンスと、当時最先端のデジタル技術を駆使した映像、照明、美術、サウンドシステムを総合的にミックスするという、非常に実験的なイベントである。私はこの仕事で制作を担当していた。

コンサートでは、演出家にあたる役目をアーティストやプロデューサーが担うことが多いため、芝居における演出家のような役割は存在しない。また、映画の世界では舞台監督の役目は、助監督が行うことが多く、舞台監督のような役割は存在しない。演出家、舞台監督、制作の三者がそろうのは芝居の世界だけなのだ。

芝居を観ていると、かつて制作を担当したころのほろ苦い思い出が何度もよみがえった。成功したことよりも、冷や汗をかくような失敗のほうが深く記憶に刻まれるもので、舞台で演じられるさまざまなストーリーをなつかしい思いで鑑賞している自分がいた。『ヘッズ・アップ!』の意味については、劇中で重要な場面として描かれているので、ここでは触れないでおこうと思う。

脚本:倉持裕 原案・作詞・演出:ラサール石井 作曲・音楽監督:玉麻尚一 出演:哀川 翔 相葉裕樹 橋本じゅん 青木さやか 池田純矢 今 拓哉 芋洗坂係長 オレノグラフィティ 陰山 泰 岡田 誠 河本章宏 井上珠美 新良エツ子 外岡えりか 大空ゆうひ 中川晃教 ほか

2018年3月8日木曜日

村上春樹氏が住んでいた千駄ヶ谷のマンション -2

村上春樹氏が住んでいたマンションについての続きを書いてみようと思う。

前回の記事では、村上氏の千駄ヶ谷時代を前期と後期に分けて、当時住んでいたと思われるアパートとマンションで住み分けをしたのだが、さらに資料を調べていくと、村上氏は1981年に千駄ヶ谷から千葉の習志野へと引っ越したあと、1984年に神奈川の鵠沼へと移り、さらに1985年にはふたたびこの千駄ヶ谷へと戻ってきていたことがわかった。

前回の記事で村上氏の千駄ヶ谷時代を1977年〜1979年の『プリンスビラ』在住期と1979年〜1981年『外苑パークホームズ』在住期に分けた根拠は、2017年11月に惜しくも閉店してしまった村上春樹氏ゆかりの書店『ブックハウスゆう』店内に展示されていたカーテンのキャプションにある。

『ブックハウスゆう』には、ある記事を書くために取材で訪れたのだが、それから数日後にふたたび行ってみると、なんとその日が最終日だったという奇遇も重なった。
このキャプションには、「村上氏は千駄ヶ谷で最初『プリンスビラ』に住んだ後、隣のマンションへ転居しました。このカーテンは、そのマンションにかけらていたものです」とある。

仮に『プリンスビラ』に4年住み、習志野に3年、鵠沼に1年住んだ後で『外苑パークホームズ』に引っ越してきたのなら「村上氏は千駄ヶ谷を出て4年間別の場所に住んだ後、かつて住んでいた『プリンスビラ』隣のマンションへと戻ってきました〜」と書くはず。これが、1977年〜1981年の千駄ヶ谷在住期を前期と後期に分けた理由だ。
1985年にふたたび千駄ヶ谷に戻ってきた村上氏だが、もう一度『外苑パークホームズ』に住んだかどうかは定かではない。これについては引き続き調べてみるつもりだ。話がややこしくなるが、村上氏の千駄ヶ谷時代は、1977年〜1981年が第1期、1985年〜1986年が第2期ということになる。

さて、村上氏が『外苑パークホームズ』に住んでいたころを偲ぶ貴重な資料が手元にあるので、ここに掲載する。『外苑パークホームズ』分譲時のパンフレット(サマリヤ社)である。
3LDKに約70㎡の広さをもつCタイプの間取りが予想図として描かれており、
村上氏が住んでいた部屋の間取りとほぼ同じものであると推測できる。
このマンションに現在もある一室の窓のどこかに、先ほどの花柄のカーテンがかけられていたのだろう。

左の資料は、外苑パークホームズのエントランスホールの完成予想図である。竹中工務店によってほぼこのパース図どおりに施工され、現在も形を変えずに当時のままの姿で残っている。

2018年3月5日月曜日

村上春樹氏が住んでいた千駄ヶ谷のマンション -1

2015年12月、それまで住んでいた神宮前の『原宿インペリアルハイツ』から千駄ヶ谷の『外苑パークホームズ』というマンションに引っ越すことが決まり、その契約のために不動産会社でさまざまな手続きを行っているころ、元マンションオーナーからふいに「そういえばこのマンションには、あの村上春樹さんも住んでいたんですよ」と言われた。
たしかに村上春樹氏の初期エッセイには、千駄ヶ谷についての記述がいくつもあったような・・・。
『外苑パークホームズ』が竣工したのは、1979年3月。37戸あるマンションの一室を、作家デビュー直前の村上春樹氏が借りて奥さんと2人で住んでいたという。

村上夫妻は、このマンションに引っ越す前は、すぐとなりにあった『プリンスビラ』という木造2階建てのアパート(現在は建て替えられている)に住んでいたそうだが、『外苑パークホームズ』が新築で建った直後にこちらへ引っ越していると思われる。
村上氏は大学在学中に学生結婚したのち、文京区千石にあった夫人の実家から国分寺に移り住み、1974年にジャズ喫茶『ピーターキャット』を開店。
それから3年後の1977年に『ピーターキャット』を千駄ヶ谷に移転すると同時に、上述の『プリンスビラ』へと引っ越し、さらにその2年後には『外苑パークホームズ』へと移り住んでいる。左の画像は、サマリヤ社が製作した『外苑パークホームズ』分譲時のパンフレット中面見開き。元マンションオーナーからいただいた貴重な資料である。

村上氏が作家デビューするのは、『外苑パークホームズ』の竣工と同じ1979年のこと。ジャズ喫茶『ピーターキャット』の閉店後にお店のテーブルで4カ月かけて書いた処女作『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞し、同年7月に講談社から単行本として発売されたのだ。

その後、『中国行きのスロウ・ボート』から始まる短編作品や、2作目の長編『1973年のピンボール』もヒットして作家・村上春樹は売れっ子となり、1981年には専業作家となることを決意して『ピーターキャット』を人に譲り、夫婦ともども千葉の習志野へと移住している。Keep On Movingという言葉は、まるで彼のためにあると思えるような人生である。

右側手前の切妻屋根の住宅が『プリンスビラ』跡地
村上氏にとっての千駄ヶ谷時代は、1977年から1979年にかけてジャズ喫茶『ピーターキャット』を移転させて軌道に乗せるまでと、1979年から1981年にかけての作家とジャズ喫茶経営を兼業していた2つの時期に分かれており、前者を“プリンスビラ期”、後者は“外苑パークホームズ期”と呼んで差し支えないだろう。

左の写真は、外苑パークホームズのベランダから見える現在の風景。南に面したテラスからの見晴らしは良く、近くに高い建物もないので陽当りは良好だ。村上氏も、この景色を眺めながら小説を書いていたに違いない。

2018年3月4日日曜日

千駄ヶ谷は、ディープな森のようなまち

神宮前に住んでいるころ、千駄ヶ谷の印象といえばどちらかというと薄いものだった。視界にあるのはたいてい青山や原宿で、千駄ヶ谷を意識したことはあまりなく、例外は「鳩森八幡神社」くらいのものだったろうか。それが、引っ越して千駄ヶ谷の住民になることで、いやでも意識するようになった。
住んでみると、千駄ヶ谷はまるでディープな森のようなまちだった。鳩森神社を中心に5本の道が交差し、そのうちの3本は坂になっている。その5本の道に沿って土地が区分けされ、それぞれに住宅地が形成されている。

1964年の東京オリンピック直前まで、この一帯は「連れ込み旅館」が林立する性風俗のメッカだったという。戦後、朝鮮戦争で増えたアメリカ兵を相手にする売春婦たちが、営業用に利用したのがきっかけで、この界隈には幾多もの“旅館”ができた。

当時の千駄ヶ谷がいかにすごかったかは、性社会史研究家の三橋順子氏による研究「1953~1957年の東京連れ込み旅館広告データベース(全371軒)」で、なんと新宿、渋谷、池袋をおさえて1位をほこっていたことからもうかがえる。

千駄ヶ谷(39軒)
新宿(31軒)
渋谷(29軒)
池袋(19軒)

その後、1962年当時の千駄ヶ谷の連れ込み旅館の様子を、梶山季之氏のミステリー小説『朝は死んでいた』では、「午前中にやってくるのは人妻と大学生、歌手とか映画俳優のカップル、昼下がりの情事を楽しむのは、重役と女秘書、若い高校生たち、夕刻から午後11時頃までは、商店主と女事務員、人妻と学校教師、そのあとが、泊り客で、水商売の女と客の男性とのカップルである・・・」と描写している。
当時の千駄ヶ谷で育った飲み屋のママの話では、子供のころは自分の住んでいる地名を人に言うのがはばかれるほど、風紀は乱れていたそうだ。
そんな千駄ヶ谷の連れ込み旅館も、1964年に開催が決まった東京オリンピックをきっかけに行政指導で浄化され、ついには撤廃へと追い込まれた。そんな時代の名残りとして、今でもまちに残っているのが『ホテルきかく』の看板だ。玄関には、現在は営業していませんという貼り紙が掲示されている。
吉原遊郭とともに歩んだ「吉原神社」、あるいは渋谷円山町のホテル街に祀られる「千代田稲荷神社」と同じように、当時の「鳩森八幡神社」には、色事の前後にひっそりと参拝する客が後を絶たない時期もあったに違いない。

ところで、千駄ヶ谷というまちは、かつて連れ込み旅館で栄えた割には、賑やかな商店街とは無縁の閑静な住宅地である。千駄ヶ谷〜北参道界隈が“ダガヤサンドウ”と呼ばれて観光客が増えた最近でさえ、青山や原宿とは比べものにならない穏やかさだ。
歌舞伎町、新大久保、円山町、錦糸町といったホテル街の周辺は、必ずと言っていいほど居酒屋、料理屋、喫茶店、バーなどで栄えているのに、千駄ヶ谷にはその片鱗すらうかがえないのである。
鳩森神社から西に伸びて北参道交差点に続く「千駄ヶ谷大通り」は、古くから千駄ヶ谷と代々木を結ぶ主要道で、戦前には『豊栄亭』という芝居小屋もあるなど大いに賑わったとされるが、今ではその面影はない。同じ通りにあった『鶴の湯』も2016年12月31日に惜しくも閉業している。
1960年代前半には、千駄ヶ谷小学校付近にまで連れ込み旅館が林立し、それを一掃しようという運動が近隣住民や小学校のPTAを中心におこった。1957年(昭和32年)、原宿と共に文教地区としての指定を受けてから、千駄ヶ谷にあった連れ込み旅館は徐々に姿を消し、現在では風俗営業法に指定されるこうした施設はみられなくなった。

2020年の東京オリンピックを前に、千駄ヶ谷のまちはどう変貌を遂げるのだろうか。すでに、千駄ヶ谷駅とその正面にある「津田ホール」は建て替え工事が進んでいる。

2018年3月3日土曜日

神宮前から千駄ヶ谷へ 北東400mの移動

2016年2月、それまで12年半住んだ神宮前2丁目のマンションから、千駄ヶ谷2丁目のマンションへと引っ越した。その移動距離は、北東へおよそ400m。こんなわずかな距離の引っ越しでも、自分にとって・・・それは大きな事件だった。
神宮前2丁目のマンション『原宿インペリアルハイツ』には、独身時代の2003年7月からの8年間と、結婚して子供が生まれ親子3人で暮らし始めた2012年7月から4年半の計12年半にわたって住んでいた。

手を伸ばせばすぐにお気に入りのギターがあり、オーディオ、CD、カメラや本に囲まれたその部屋は、自分の体の一部のようなものだった。しかし、1LDKに約40㎡の空間に親子3人ではどんどん手狭になっていくわけで、意を決して隣町の千駄ヶ谷2丁目にあるマンションへと移り住んだのだ。
ところが、引っ越してから何日か過ぎるうち、なぜか自分のアイデンティティが少しずつ失われていくような虚しさに覆われていき、それは日を追うごとに強くなっていった。

心にぽっかりと穴があいたような日々・・・どうもおかしい、そう思ってインターネットで調べてみると、どうやら巷で言われるところの「引っ越しうつ」の症状であることに気がついた。
その症状とは、以下のようなものである。

•引っ越しの荷物がいつまでも片付かない(片付けようとしない)
•物欲や意欲が低下する
•外出したがらない

「引っ越しうつ」は、徐々に環境に慣れれば自然治癒するのが普通らしく、とくにカウンセリングを受けることもなく数カ月が過ぎたが、改善するどころか追い討ちをかけるようにマンションの大規模修繕工事が始まり、工事の騒音やプライバシーが保てない状態が半年以上も続くという悪条件が重なって、精神的なモヤモヤはその後もしばらく続いたのだった。

長い停滞期間からやっとのことで脱出できたのは、引っ越しから1年半以上経った11月のよく晴れた日。新宿御苑へ息子と2人で取材に出かけたとき、イングリッシュガーデンに咲いていたバラの花壇を見たのがきっかけだった。

あざやかに咲いている真紅のバラを見て、素直にきれいだなという思いが湧き起こった。マイク真木の歌に「バラが咲いた」という曲があるけれど、まさにそこで歌われていた詞そのままの心境になったのだ。

以来、新しいマンションでの生活も変わっていき、次第に気持ちは晴れていった。こうして、引っ越しについて書こうと思ったのも、心境の変化の表れである。その間、実に2年余り。やっと、自分というものを取り戻せたような気がする今日このごろである。