2012年6月22日金曜日

ポスト・イメージ論  〜世界視線をめぐる諸相〜

 ポストモダンという言葉が、何の疑いもなくもてはやされ、今思えば何でもありという時代感覚そのものであった1980年代後半のこと。仕事を終えて仲間たちと飲んでいる場でよく繰り広げられていた、いささか青臭い議論=テーマがあった。

「ポストモダン以降のニューパラダイムとは何か?」

 現在のように、不況、震災、原発事故といった社会不安のない時代である。当時、我々のいた広告業界では、経済やマーケティング分野よりも、現代思想や哲学の本をまずは読むべしという風潮があった。そうでなくとも、本棚のなかにある村上龍のとなりには中沢新一、山田詠美のとなりには上野千鶴子の本を並べておこうという、同時代的な感覚があったと思う。

 バブル景気のこの時代、アウトドア派は外車や高級車に乗って郊外へと出かけ、インドア派はカウチに座ってポテトチップスを食べながら、読書や映画鑑賞するのが流行りだった。デスクトップにはパソコンよりもワープロがまだ主流の頃である。

 そんな時代に入っても、戦後の思想界をリードしてきた全共闘世代のカリスマ、吉本隆明は強い影響力を持っていた。バブル時代の申し子だった村上龍や坂本龍一と交流があったのも大きかったかもしれない。

 当時、ニュー・アカデミズムと呼ばれていたポスト構造主義側の学者や文化人たちは、戦後の日本が果たしてきた経済発展をこれから担うものは、ディコンストラクション=脱構築から生まれると信じてやまなかった。

 この時期に吉本隆明は、自著の『ハイ・イメージ論』のなかで「世界視線」という新しい視覚イメージについて論じている。世界視線とは、地上や地形を俯瞰して眺めている、1.臨死状態からの視線であり、2.ランドサット(衛星)からの視線であり、3.コンピュータ・グラフィックスによる過視的な視線を指していた。

 それらはあくまで人間(脳)もしくは人工的な視覚イメージを中心に論じられており、衛星からの画像とコンピュータによる情報処理に着眼しているという点では、Google Earth を予見していたという見方もできる。

1980年代後半のバブル期に酒場で囁かれていた次世代のパラダイムとは?」

 そのひとつが、イメージという社会思想だった。それは国家や民族、あるいは人類が持っている共通概念であり、何かのメッセージを伝えようとする視覚情報のことでもあった。前者が、我々にとっての共同幻想で、後者が記号化・視覚化されたマス・イメージである。

 その後、ハイ・イメージ論は拡張されて1990年に『ハイ・イメージ論2』、1994年には『ハイ・イメージ論3』として刊行されている。1990年といえばパソコン通信が普及しはじめ、1994年はインターネットが誕生した年である。マーシャル・マクルーハンが1960年代に予言したとおり、メディアの主流はマスからメッセージ・メディアへと進化し、一方向型から双方向型へと拡張していった。

 吉本隆明の言論はこの後も続くが、1996年の海水浴場での溺死寸前の事故以来、エッセイ風の書物が増えていく。また、2008年には「通信・情報の科学技術により、1980年代当時の情況判断はわたしの思考力を超えて劇的に進化した」と述べているように、ハイ・イメージ論で展開しようとした、テクノロジー・文化都市思想と、その後に起こったIT革命との間には乖離があったことを認めている。

 世界視線という概念は、Google Earthというインターネット・ツールによっていとも簡単に具象化された。飽和状態だった20世紀型メディアのなかだからこそ、輝いていたともいえる言論の世界は、IT革命によって急激に色褪せてしまった。

 ポストモダン以降のパラダイムは、共有するイメージ=集合的無意識ではなく、情報発信・情報交換しあうメッセージ=集合意識へと進化したのである。イメージ論をメッセージ論に置き換えてみれば、今の時代を象徴するものが見えてくるかもしれない。吉本流にいえば、体内のイメージが自己表出とすれば、体外へと発せられるメッセージは指示表出ということになる。

 そして、われわれは今、メッセージの時代を生きている。

2012年2月25日土曜日

建築家 村野藤吾と「資本論」について

 今から20年くらい前に、村野藤吾氏の生誕100年を記念した映像作品「普請往来 建築家 村野藤吾と自邸」の制作に携わる機会をいただいた。時はバブル崩壊前夜、1990年のことである。この映像制作のために、宝塚市にあった村野邸をロケハン、ロケ、再撮影と3回にわたって訪れることになった。それから5年後の阪神淡路大震災の影響で、この邸宅が全壊してしまう運命にあるとは、もちろん思いもよらずのことだった。

 この村野邸、玄関を入るとすぐ右側に茶室、左側には和室があるのだが、我々は村野藤吾氏のご長男、漾さんに案内されて正面の廊下を伝った応接間に通していただいて、そこで打ち合わせするのが決まりだった。

 応接間の天井には立派な梁が設えてあり、その梁を支える床柱には、醤油絞り用の角が付いた木が使われていたのを覚えている。しかし最も印象に残っているのは、応接間から廊下を挟んだ場所にあった書斎である。貧弱と思えるほどに薄い天板を、これまた細い脚が支えているだけのごくシンプルな机。庭に植えられた竹林の間からこもれ落ちる陽光の幾筋かがこの机に差している光景に、読書に耽っている生前の村野氏の姿が偲ばれた。


 書斎の本棚に飾られていた額には、ドイツ語の表彰状が装幀されており、その表彰状にはハーケンクロイツの紋章と直筆のサインが入っていた。戦前に設計したという「ドイツ文化研究所」の貢献を讃え、アドルフ・ヒトラーから贈られたものだそうだ。そして、数百冊はあろうかという蔵書のなかでも、ひと際目立っていたのが、マルクスの「資本論」だった。ハードカバーから文庫本まで、何度も版を重ねたであろうこの本が、何冊も何冊も大切に保管されていた。

 そのうちの文庫本を一冊手に取ってみると、本の余白にはびっしりと数式が万年筆で細かく記されていて、余白が足りないページには紙片を糊で貼り足してまで、そのメモは続いていた。その執念たるや尋常ではない。村野藤吾という国家を代表する大建築家と、あの「資本論」がどのように結びつくのかには、大いに興味をそそられた。NHKから借りた映像のなかに、この書斎でインタビューを受ける村野氏の姿があった。そこで、氏はこう答えている。

「しっかりと、これが“建築”であるということを掴むのには不安があるのです。『資本論』は、物的社会の聖書のようなもので、建築という行為すべての元になっている。それはサイエンスであり科学であると同時に、非常な厳しさを持っている。ですから、それを通して“建築”を眺めていくのです」


 戦時中、建築設計の仕事から遠ざかっていた村野氏は「資本論」の研究に没頭したという。戦後の復興期に起こるであろう都市の再開発を見越していたのと同時に、経済システムと建築は切り離せない関係にあると考えていたからではないだろうか。村野氏の「資本論」研究は、建築界が大いに栄えた高度成長期はおろか、バブル経済を向かえていた晩年の時代まで続けられたという。

後に、村野藤吾氏はこう語っている。

「建築は、建ったその瞬間に完成するものではありません。施主、設計者、施工者が三位一体となって建築を創造した後に、居住者がそこに住みついて、それから何年、何十年も時を経て、はじめて本当の建築として完成するのです

 こうした村野氏の建築観は「資本論」をはじめとする経済学を通して培われたといえるのではないだろうか。戦後の思想界に大きな影響を及ぼした吉本隆明氏が、アダム・スミスの「国富論」によって“新たな自我”を確立したように、敗戦というカタストロフを経験した人々の一部にとっては、これら経済学こそ、もっとも信頼できる道標のひとつだったのかもしれない。

 現在は、リーマンショック後に起こった世界金融危機の影響もあり、マルクスの「資本論」がふたたび注目されている。「資本主義においては、需要と供給のバランスをとるために恐慌は必ず起こる」という資本論の基本思想は、サブプライムローンに端を発したリーマンブラザースの破綻と、その多大な影響で一気に現実味を帯びた。冷戦という二項対立的なイデオロギー論争の時代は終焉し、第三の角度から「資本論」を見直すべき時代が来ているのだ。


 村野氏が没頭した「資本論」の数式化とは、一体何だったのか。

 戦後の民主主義国家、日本の建築界を築いていく立場にいた大建築家が、社会主義・共産主義体制を目指したとは到底考えられない。氏にとって「資本論」とは、資本主義を客観的に総括し、その矛盾点を打破するための教科書だったのではないだろうか。そして、その矛盾を解決しようという試みが、あの難解な数式の数々だったに違いない。村野藤吾氏が、戦前から戦後のバブル期にかけてライフワークとしていた「資本論」(資本主義)の再構築は、今の時代だからこそ、我々の叡智を絞って成し遂げられるべきテーマなのではないだろうか。

 バブル経済の絶頂期である1990年にプロジェクト化され、バブルが崩壊した1991年に完成した「普請往来 建築家 村野藤吾の自邸」は、20分の映像作品としてまとめられ、同年に開かれた「村野藤吾生誕百年記念祭」にて上映・配布された。この映像作品には、NHKのインタビュー映像をはじめ、資本論に記されたメモの数々、宝塚の自邸や阿倍野にあった仕事場(村野・森建築事務所)の建築映像などが収められている。今となっては貴重な文化的資料といえるのかもしれない。

2012年2月18日土曜日

Olafur Eliasson “Your Rainbow Panorama”


 コペンハーゲンに続く第二の都市として知られるオーフス。オーフス湾に面した港湾都市として栄えたこの街に、新しい観光の目玉が誕生した。北欧最大とも言われる現代美術館「アロス・オーフス現代美術館」の屋上に、突如現れた展望空間がそれだ。デンマーク生まれの芸術家、オラファー・エリアソンによるこの巨大なインスタレーションは、観客を異次元の世界へといざなう。光のスペクトルを巨大なガラスケースに閉じ込めた、見るも鮮やかな虹のパノラマだ。


 この巨大なインスタレーションが画期的なのは、展望室の内部から眺めた風景と、その人物も含めた外側の風景、この二つが共に鑑賞できるという点だ。内部からの視線はグラデーショナルなパノラマとして、外部からの視線は人形が行き交うショーケースとして、主観(主体)と客観(客体)が同一の造形物のなかで、生きている彫刻のように交錯する。鑑賞する行為そのものが芸術作品であるかのように。