住んでみると、千駄ヶ谷はまるでディープな森のようなまちだった。鳩森神社を中心に5本の道が交差し、そのうちの3本は坂になっている。その5本の道に沿って土地が区分けされ、それぞれに住宅地が形成されている。
1964年の東京オリンピック直前まで、この一帯は「連れ込み旅館」が林立する性風俗のメッカだったという。戦後、朝鮮戦争で増えたアメリカ兵を相手にする売春婦たちが、営業用に利用したのがきっかけで、この界隈には幾多もの“旅館”ができた。
当時の千駄ヶ谷がいかにすごかったかは、性社会史研究家の三橋順子氏による研究「1953~1957年の東京連れ込み旅館広告データベース(全371軒)」で、なんと新宿、渋谷、池袋をおさえて1位をほこっていたことからもうかがえる。
千駄ヶ谷(39軒)
新宿(31軒)
渋谷(29軒)
池袋(19軒)
その後、1962年当時の千駄ヶ谷の連れ込み旅館の様子を、梶山季之氏のミステリー小説『朝は死んでいた』では、「午前中にやってくるのは人妻と大学生、歌手とか映画俳優のカップル、昼下がりの情事を楽しむのは、重役と女秘書、若い高校生たち、夕刻から午後11時頃までは、商店主と女事務員、人妻と学校教師、そのあとが、泊り客で、水商売の女と客の男性とのカップルである・・・」と描写している。
そんな千駄ヶ谷の連れ込み旅館も、1964年に開催が決まった東京オリンピックをきっかけに行政指導で浄化され、ついには撤廃へと追い込まれた。そんな時代の名残りとして、今でもまちに残っているのが『ホテルきかく』の看板だ。玄関には、現在は営業していませんという貼り紙が掲示されている。
吉原遊郭とともに歩んだ「吉原神社」、あるいは渋谷円山町のホテル街に祀られる「千代田稲荷神社」と同じように、当時の「鳩森八幡神社」には、色事の前後にひっそりと参拝する客が後を絶たない時期もあったに違いない。
ところで、千駄ヶ谷というまちは、かつて連れ込み旅館で栄えた割には、賑やかな商店街とは無縁の閑静な住宅地である。千駄ヶ谷〜北参道界隈が“ダガヤサンドウ”と呼ばれて観光客が増えた最近でさえ、青山や原宿とは比べものにならない穏やかさだ。
歌舞伎町、新大久保、円山町、錦糸町といったホテル街の周辺は、必ずと言っていいほど居酒屋、料理屋、喫茶店、バーなどで栄えているのに、千駄ヶ谷にはその片鱗すらうかがえないのである。
鳩森神社から西に伸びて北参道交差点に続く「千駄ヶ谷大通り」は、古くから千駄ヶ谷と代々木を結ぶ主要道で、戦前には『豊栄亭』という芝居小屋もあるなど大いに賑わったとされるが、今ではその面影はない。同じ通りにあった『鶴の湯』も2016年12月31日に惜しくも閉業している。
1960年代前半には、千駄ヶ谷小学校付近にまで連れ込み旅館が林立し、それを一掃しようという運動が近隣住民や小学校のPTAを中心におこった。1957年(昭和32年)、原宿と共に文教地区としての指定を受けてから、千駄ヶ谷にあった連れ込み旅館は徐々に姿を消し、現在では風俗営業法に指定されるこうした施設はみられなくなった。
2020年の東京オリンピックを前に、千駄ヶ谷のまちはどう変貌を遂げるのだろうか。すでに、千駄ヶ谷駅とその正面にある「津田ホール」は建て替え工事が進んでいる。
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