この村野邸、玄関を入るとすぐ右側に茶室、左側には和室があるのだが、我々は村野藤吾氏のご長男、漾さんに案内されて正面の廊下を伝った応接間に通していただいて、そこで打ち合わせするのが決まりだった。
応接間の天井には立派な梁が設えてあり、その梁を支える床柱には、醤油絞り用の角が付いた木が使われていたのを覚えている。しかし最も印象に残っているのは、応接間から廊下を挟んだ場所にあった書斎である。貧弱と思えるほどに薄い天板を、これまた細い脚が支えているだけのごくシンプルな机。庭に植えられた竹林の間からこもれ落ちる陽光の幾筋かがこの机に差している光景に、読書に耽っている生前の村野氏の姿が偲ばれた。
書斎の本棚に飾られていた額には、ドイツ語の表彰状が装幀されており、その表彰状にはハーケンクロイツの紋章と直筆のサインが入っていた。戦前に設計したという「ドイツ文化研究所」の貢献を讃え、アドルフ・ヒトラーから贈られたものだそうだ。そして、数百冊はあろうかという蔵書のなかでも、ひと際目立っていたのが、マルクスの「資本論」だった。ハードカバーから文庫本まで、何度も版を重ねたであろうこの本が、何冊も何冊も大切に保管されていた。
そのうちの文庫本を一冊手に取ってみると、本の余白にはびっしりと数式が万年筆で細かく記されていて、余白が足りないページには紙片を糊で貼り足してまで、そのメモは続いていた。その執念たるや尋常ではない。村野藤吾という国家を代表する大建築家と、あの「資本論」がどのように結びつくのかには、大いに興味をそそられた。NHKから借りた映像のなかに、この書斎でインタビューを受ける村野氏の姿があった。そこで、氏はこう答えている。
「しっかりと、これが“建築”であるということを掴むのには不安があるのです。『資本論』は、物的社会の聖書のようなもので、建築という行為すべての元になっている。それはサイエンスであり科学であると同時に、非常な厳しさを持っている。ですから、それを通して“建築”を眺めていくのです」
戦時中、建築設計の仕事から遠ざかっていた村野氏は「資本論」の研究に没頭したという。戦後の復興期に起こるであろう都市の再開発を見越していたのと同時に、経済システムと建築は切り離せない関係にあると考えていたからではないだろうか。村野氏の「資本論」研究は、建築界が大いに栄えた高度成長期はおろか、バブル経済を向かえていた晩年の時代まで続けられたという。
後に、村野藤吾氏はこう語っている。
「建築は、建ったその瞬間に完成するものではありません。施主、設計者、施工者が三位一体となって建築を創造した後に、居住者がそこに住みついて、それから何年、何十年も時を経て、はじめて本当の建築として完成するのです」
こうした村野氏の建築観は「資本論」をはじめとする経済学を通して培われたといえるのではないだろうか。戦後の思想界に大きな影響を及ぼした吉本隆明氏が、アダム・スミスの「国富論」によって“新たな自我”を確立したように、敗戦というカタストロフを経験した人々の一部にとっては、これら経済学こそ、もっとも信頼できる道標のひとつだったのかもしれない。
現在は、リーマンショック後に起こった世界金融危機の影響もあり、マルクスの「資本論」がふたたび注目されている。「資本主義においては、需要と供給のバランスをとるために恐慌は必ず起こる」という資本論の基本思想は、サブプライムローンに端を発したリーマンブラザースの破綻と、その多大な影響で一気に現実味を帯びた。冷戦という二項対立的なイデオロギー論争の時代は終焉し、第三の角度から「資本論」を見直すべき時代が来ているのだ。
村野氏が没頭した「資本論」の数式化とは、一体何だったのか。
戦後の民主主義国家、日本の建築界を築いていく立場にいた大建築家が、社会主義・共産主義体制を目指したとは到底考えられない。氏にとって「資本論」とは、資本主義を客観的に総括し、その矛盾点を打破するための教科書だったのではないだろうか。そして、その矛盾を解決しようという試みが、あの難解な数式の数々だったに違いない。村野藤吾氏が、戦前から戦後のバブル期にかけてライフワークとしていた「資本論」(資本主義)の再構築は、今の時代だからこそ、我々の叡智を絞って成し遂げられるべきテーマなのではないだろうか。
バブル経済の絶頂期である1990年にプロジェクト化され、バブルが崩壊した1991年に完成した「普請往来 建築家 村野藤吾の自邸」は、20分の映像作品としてまとめられ、同年に開かれた「村野藤吾生誕百年記念祭」にて上映・配布された。この映像作品には、NHKのインタビュー映像をはじめ、資本論に記されたメモの数々、宝塚の自邸や阿倍野にあった仕事場(村野・森建築事務所)の建築映像などが収められている。今となっては貴重な文化的資料といえるのかもしれない。
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