吉本氏は、このなかで文芸評論を例にしながら、言語とは、自己との対話(沈黙)から生じる「自己表出」と、外部とのコミュニケーション(伝達)から生じる「指示表出」の二つが本質とであると述べている。
また、近代の作曲家が残した譜面は、指揮者や演奏者の解釈によって、全く違うものとなるのと同様、文学とてそれは同じであるとも述べている。これは、作者が感じた自己表出をいくら再現しようとしても、結果的には外部的意思を媒介する以上、指示表出の域を出ることはないというようにも解釈できる。
ソシュールが定義した、シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)が社会的記号論だとすれば、今回の吉本氏の主張は、一人ひとりの人間にある思考と、外部的思考との差異を表す「個体的記号論」のような性質を持っているとも受けとれる。
かつて、吉本氏は著書の「言語にとって美とはなにか」をはじめ、いくつかの対談のなかで「思想とは、言葉によって発せられたときに始めて生まれるものである」と述べている。その後の「共同幻想論」や「マスイメージ論」で展開されていく、コミュニケーション論の基礎となっている考え方だ。
しかし、時代は変わってコミュニケーションの在り方は大きく変容した。マスメディアに変わるインターネットの普及は「共同幻想」や「マスイメージ」といった概念を遥かに超越し、「個」と「個」が結ばれたり反応しあったりして起こる「コミュニケーション連鎖」が大きな影響を与える時代を迎えている。
今回のテーマが「芸術言語論」であることを思うと、現代思想に大きな影響を与えてきた思想家の言論は、いささか小さくまとまっているな...という印象である。米寿を前にして文芸評論という原点に立ち戻ったということなのだろうか。吉本氏の話しを聞いていて、若い頃に読んだ、武満徹氏の「音、沈黙と測りあえるほどに」を思いだした。文学者だけではなく、作曲家も「自己表出」と「指示表出」の狭間で揺れていたのである。